ARTISTS

靉嘔 AY-O

靉嘔は1953年にデモクラートに参加して以来、既成の画壇や芸術に反発し、自身でしか制作することの出来ない芸術の新しい表現方法を求め続けたアーティストです。今迄に無い表現を追求するためには、既成の芸術を否定することからの出発であり、確立された画壇の権威主義への反骨精神である。これは靉嘔の中で始終一貫して貫かれているものであり、新しい表現を求める姿勢は”触覚”というそれまで芸術では表現されてこなかった感覚を作品化した。また光によって見ることの出来る色=スペクトルであるという考えに至った靉嘔は1965年に最初の虹の絵画作品を制作。以来スペクトルの色順番で絵画を描き続けている。これはどの色も等しく扱いたいという靉嘔の考えからであり、平等を求めた靉嘔にとってはしごく当たり前のことであった。色を選ぶというアーティスト個人の趣味指向からの絵画の開放でもある。「虹」の絵画は靉嘔の代名詞となり、世界的に知られている。戦後日本を代表するアーティストである。

靉嘔 (1931年茨城県生まれ)

1950年 東京教育大学教育学部芸術学科入学。1963年読売アンデパンダン展に出品するなど、学生時代からアーティスト活動を開始する。

1954年 東京教育大学教育学部芸術学科卒業。

1953年 デモクラート美術家協会に参加。戦後、新たな芸術を生み出そうと誕生した数ある団体の一つで、画家の瑛九を中心に1951年に結成され、57年に解散するまでにその後世界で活躍する多くのアーティストたちが参加した。「デモクラート」とはデモクラシー(民主主義)を意味するエスペラント語で、既成の美術団体や画壇の権威主義、特に公募展に対する批判と反骨精神から生まれた。画家の他、写真家、グラフィックデザイナー、舞踏家などで、戦後日本に於ける重要な活動を行った。同じ頃関西には1954年に具体美術協会が活動していた。

1958年渡米。自身の誕生日である5月19日にニューヨークに到着。

1960年 キャナル•ストリートのロフトに居を構え、ニューヨークを拠点にインターナショナルな活動を行う。50年代後半より沸き起こった展示空間や野外の環境を使用し、鑑賞者をも取り込んだ音や光や色彩などのあらゆる要素を素材とする芸術の一傾向であるエンバイロメント•アートの作品を制作時始める。アラン•カプローが提唱した「アッサンブラージュ、エンヴァイロメンツ、ハプリング」でも靉嘔の作品が取り上げられ、紹介されている。

1963年リトアニア移民のジョージ•マチューナスが主催するフルクサスに参加。オリジナル•メンバーであり、多くのフルクサスのイヴェントに参加し、グループの中で重要な役割を果たす。またイヴェントへの参加は、触覚(タクタイル)を自身の作品の素材とした”フィンガー•ボックス”の制作へと発展する。

1965年 最初のレインボーのペィンティングを描く。以来”レインボー(虹)”のアーティストとしての活動が繰り広げられ、国際的に知られてゆく。また1950年代、美術評論家ある久保貞次郎が提唱した美術教育の運動「創造美育運動」から起こった「小コレクターの会」のために多くの版画作品を制作している。会の基本理念は本物の美術品をコレクションすることでアートに対する理解を深め、美術品を買う事が無名のアーティストたちを支援することにつながるという考えである。